切断と接合の美学 上妻世海
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歴史とは形式の外側で内容に意味を与える内容を担っていた時代がある。例えば柄谷行人は哲学史は形式化における転倒の歴史であり、その転倒に意味を与えるのは形式の外にある「歴史」である、と述べていた。ここでアーカイブの意味について再考する必要が生じるだろう。もはや我々は歴史の蓄積を形式の外側から意味を規定する構造としてではなく、検索エンジンを通じていつでも参照できる可視化されたサンプルの倉庫として捉えている節があるからである。 私達は価値観の複数性を自明のものとし、偏った共感を元にそれを高速でブラウジングしながら、自らの体系を入れ替え、頻繁にアップロードしながら、作り変えていく。ネットワークを光の速度で漂いながら、同時に、文字通り世界のいたるところで、切断され、各々の美的感覚を元に接合されては切断され、奇形的に変態していく画像を前にして、そこに映るのはネットワークとアーカイヴが生み出した怪物なのか、それとも私たち自身なのか。私から言えることは一つである。万国の人々よ、ネットワークに内在せよ。イメージを、メロディを切り刻み、各々の方法で再構成せよ。作り上げたものをアップロードし、ネットワークへ、日常へ流し込め。鈍間な奴らがついてこれないスピードで。